コントで
日本中を楽しませてくれた
志村けんさんが亡くなられたニュースに
大変、胸を痛めています
私が小学生のころ
母が一年以上も入院していて
寂しかったとき
ドリフターズに助けていただきました
志村けんさんはまだ付き人時代だった
かもしれません
志村さんがお笑いを始めた原点は
いつも笑わない 教頭をしていた
厳格なお父さんが
ある日、テレビを観て笑ったからだと
やっていましたが
私も父親がドリフを観て
笑ったのです
母不在の暗い家の中で
「父ちゃんもわらってる」と
とても嬉しかったです
家というのは病人が一人いると
暗くなりますが
一家の太陽であるべき母親が
長期入院となると その暗さといったら
ありません
入院が長引いていたので
村中に母の重病説が広がり
10才の子どもの耳にも
入るようになってきました
かなりどんよりしていましたが
毎週土曜日8時になると
『8時だよ!全員集合~』と
明るく始まることで
元気が出たことを覚えています
志村けんさんの活躍は
私の中学時代になりますが
学校での悩みを
笑いで解決してくれました
ドリフを観て父が笑ってることが
日記に書いてあるかもしれないと
小学校の卒業文集を
パラパラめくってみましたが
ありませんでした
その代わり 父の寄稿文に
やっぱり母の病気のことと
わたしの成長の様子が書いてありました
【小学校卒業文集から父の寄稿】
(冒頭略)
其の頃家内に一ヶ年余りも入院され学校での事、日常家庭での事、子供達をそれぞれ学校へ送り出してやるだけで精一ぱいの状態だったのに…よくぞ皆んなに遅れずに、又挫けることなくついて行けたものだと思っております。祖母や私に母ちゃんの病気なおる?何日帰ると問いつめられた時、お正月には、いや桜の花の咲く頃かな、結局は田植え上がり迄 退院を引き延ばし 引き延ばしした時には、不憫でなりませんでした。
運動会のとき、一所懸命に「もみじ」を踊った無心な姿 隣席の見物の人々に「克江ちゃんの踊ってるとこ一目見せてえなあ」と云われた時は何か心にジーンと来ました。家内に病まれてからはこの娘の性質が大分変わりました。良い意味での成長かも…小学校ともあと僅かでお別れ、六年の間には種々様々な思いでがあっても、 二度とこんな思いは残したくなく 、躰も心もそして学問にも共に強くならなければならないと 無言の教訓が子供達の身にも沁みたことでしょう。 時の流れで世が変わり、我が家にもやっと笑いが戻って参りました。 何かと心忙しい世の中になり、この娘の面倒を充分に見てやれぬ小学校の過程を 終わらせる事は 心苦しくとも 明るい希望に胸ふくらませ 強く正しく健やかに伸びん事を願っている 今日この頃です。
父が亡くなってすでに
22年経ちます
空の上から、時々わたしの様子を
覗いているかもしれません、笑
病気をしていた当人の母は
その後、専門を磨いて
充実した人生を送りました
現在、施設で過ごしています
2020/04/13