こんばんは
はらやまです
岡本太郎 著
『自分の中に毒を持て』を
読んでみました
きっかけは
少し前、3月頃ですが
尾上右近さんのラジオ番組で
寺島しのぶさんの特選トークを
聞きました
寺島さんと
パーソナリティーの
尾上右近さんお二人とも
『自分の中に毒を持て』を
愛読していると
と仰っていました
いつか、読んでみようと
思っていましたが
最近、新聞広告で
たびたび、目にするので
購入しました
じつは先々週、
鉢に刺されてしまったので
努力する前に
〝毒を持ってしまった〟笑、と
いう現実がありますが
さて本には
何が書いてあるのでしょうか?
岡本太郎さんについては
「芸術は爆発だ!」といったり
『太陽の塔』を作った
そのぐらいしか
知りませんでした
最初、芸術家や表現者の
心構えの本なのかな?と
読み進めると
それだけではなく
「人間」=「芸術」
人間の生き方全般について
深く書いてありました
第四章になると、あれ?
これは嵐のメンバーの
ことじゃん
大野さんのことじゃん
と、繋がる内容がでてきます
1993年に青春文庫から
刊行された文庫で
今から27年前に
書かれたものが
新装版となって
近年益々、読み継がれて
いるのだそうです
【本文より】
“いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。”
まず、表紙を開くと
このことばが
飛び込んできます
そして
おのれ(著者)の顔に
ナイフを突きつけている
写真が載っています
最初から、激しい~
ついて行けるか?
しかし、意外です
とても読みやすいのです
驚いたのは
パリでの体験を経て
日本に帰ってきた
あの、『太陽の塔』を作った頃の
著者を取り巻く状況です
【本文より】
- ぼくはまず芸術表現の上で、日本の通年とまったく反対な表現をうち出した。その頃はワビ、サビ、シブミで暗くよどんだような色合いの画面でないと高尚な芸術だと思われなかったのに、真赤、真青、黄色、と原色をぶつけ、あいつは色音痴だ、などとさんざん悪口を言われた。また、この道一筋でしんねりむっつりやらないと尊敬されないのに、あらゆる問題について発言し、全身をぶつけて「ノー」と言った。まったく危険な道である。極端に言えば、それでは収入は得られない。食えない。つまり生活できないということである。好かれる必要はない。売らないという前提で絵を描き、あらゆる面で権威主義にたてつき、いわば常識を超えて、人の言わないことをあえて言い、挑んだ。
その頃の日本は
オリジナリティーを持つことが
許されない
積極的に生きようと思っても
まわり中から足を引っ張られる
そういう社会だったようです
著者はいいます
青年は己の夢にすべての
エネルギーを
賭けるべきなのだ
勇気を持って飛び込んだらいい
【本文より】
- 自分自身の生きるスジは誰にも渡してはならないんだ。この気持ちを貫くべきだと思う。どこにも属していないで、自由に自分の道を選択できる若者だからこそ決意すべきなんだ。新しく出発するチャンスなのだから。(中略)でも、失敗したっていいじゃないか。不成功を恐れてはいけない。人間の大部分の人々が成功しないのがふつうなんだ。パーセンテージの問題でいえば、その99%以上が成功していないだろう。(中略)それに、人間にとって成功とはいったい何だろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精いっぱい挑戦した、それで爽やかだ。(中略)もちろん怖い。だが、そのときに決意するのだ。よし、ダメになってやろう。そうすると、もりもりっと力がわいてくる。食えなけりゃ食えなくても、と覚悟すればいいんだ。それが第一歩だ。その方が面白い。みんな、やってみもしないで、最初から引っ込んでしまう。
瀬戸内寂聴さんの話も
出てきます
当時、瀬戸内晴美さんに
会ったとき
「ぼくはいつでも、あれかこれかと
いう場合、これは自分にとって
マイナスだな、危険だなと
思う方を選ぶことにしている」
と話し、晴美さんは
それを聞いてショックを受け、
以来それを実行してきたとの
ことです
そして、
〝爆発〟についてです
【本文より】
- ぼくは芸術と言ったが、それは決して絵・音楽・小説というような、機能的に分化された芸ごとや趣味のことではない。(中略)ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する。その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。〝芸術は爆発だ〟(中略)これは随分前からの私の信念であり、貫いてきた生き方だ。
- ぼくの提言は飛躍的で空想めいて聞こえるかもしれない。しかし今や全人類をのみ込もうとしている近代化の虚無を克服する方法はそれ以外にはないと思う。この危機の時点で、ぼくはとざされた枠をこえてひろく世界全体の人間的人間に未来的エネルギーを爆発させるようよびかけたいのだ。
今、新型コロナが
社会経済に影響を与えていますが
ここで顕在化した
東京一極集中の緩和の問題も
脱サラして地方に移り住もうかとか
食べていくために
医療、介護、農業への
労働移動しようか、とか
重大な二つの分岐点に立たされて
いる若者も多いと思います
そんなときに
【本文より】
- ほんとうの人生を歩むかどうかの境目はこのときなのだ。安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って戦うんだ。たとえ、結果が思うようにいかなくたっていい。結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。人生というのはそういうきびしさをもって生きるからこそ面白いんだ。
と強いことばで
活字が勇気づけてくれます
再びこの本が
読み継がれる理由が
ここにある!と思いました
さて、最後に
私の応援している嵐のメンバーの
生き方〝爆発!〟につながる
嵐みたいだな、と
思いださせてくれる文面が
第四章に
たくさん出てきました
大野さんを思いだしたところを
本文から抜粋して
感想ブログを終わりにしたい
と思います
第四章 嵐 大野さんもこんなふうに考えたのかもしれないと思った文面
- ぼくはとりわけ素朴な古代文化、それを通しての人間像にふれるとき、これこそ〝自然〟ではないかという思いにつかれてならないのだ。大地のひろびろとした拡がり、清冽な流れ、生い茂る樹木、あるいはそびえ立つ山と、……そしてその中に闘い、生き貫いた人間文化。それはともに〝自然〟である。ぼくに言わせればむしろ人間という、〝自然〟の方が、いちだんと濃い彩りのようにさえ思える。そういう純粋な、逞しい自然としての気配から人間文化を引き離してしまったのは、いわゆる科学主義、合理主義であり、そしてその上に立った産業革命である。(中略)いま先進国と称する国の、その第一線の都会で、いかに人々が暗い、むなしい顔をしているか。ぼくはこの時点でこそ、逆の発想を展開すべきだと思う。人間は本来、非合理的存在でもある。割り切れる面ばかりでなく、いわば無目的な、計算外の領域に生命を飛躍させなければ生き甲斐がない。ただの技術主義だけでは空しい。進歩、発展に役立つという、条件づけられた技術ではなく、まったく無償に夢をひろげていくこと。ナマ身で運命と対決して歓喜するのが本当の生命感なのだ。そのような全存在的充実感をとりもどすのでなければ、何のためのテクノロジーか、とぼくは思う。これはそのまま、真の生き方、人間性、つまり芸術の問題でもある。
ps. 岡本太郎さんは
私の実家の諏訪地方にある
〝万事の石仏〟に
そっくりです
確か、立て札に
〝岡本太郎さんが絶賛した〟
というようなことが
書いてあったと思いますが
万事の石仏を初めて見たとき
あまりに顔が
そっくりで大変驚きました
2020/08/23